私的な温泉旅のページ

建築と街並

kenchiku_machinami

温泉街の心象風景がここに!

●銀山温泉の街並み

 銀山温泉の街並みがどのように造られていったのか、昭和初期の温泉街の様子が町のホームページで写真を見ることがでる、当時の状況に想いを巡らすと、今とはチョット違う景色が見えてきた。それは当時、川の上流に向かって右岸に道は無く、左岸の主道から、対岸の建物に各々橋が架けられ、護岸は個別に造られ、段差があったりした。
そして近年の整備計画により護岸を整え歩道を整備し電柱や電線が撤去されて、2018年「かじか湯」の撤去によって右岸の歩道が全て繋がり現在に至る。
 確かにこの場に立って見渡せば絵に書いたよいうな「湯治場」としての趣と心地よさがあり、おそらくは程よい谷の狭さが建物の密度をあげ、川の細さが多くの橋が架かる銀山温泉らしさが形作られてきたのだと思う。
そしてこれらの橋について、宿の人に教えていただいた話では街の入り口としての「しろがね橋」、そこから上流の街並みが途切れるあたりの「おもかげ橋」、この二本の橋は行政が架た橋で、その間に在る八本の橋は各々の旅館が自費で架けたとの事で、欄干に宿の屋号が記載されている事や、大正2年に銀山川の氾濫「延命寺大洪水」により両岸の街並みは甚大な被害を受けたが、大正10年ごろから昭和の初めにはほとんどの宿が復興したことなど伺った。
 この様に地形的な要因、歴史的背景、そして災害などで同時代の様式の建物が建てられたことが統一感や雰囲気を生み、戦災を免れ‥それが今では「大正浪漫の街並み」として多くの旅人を引き付けている。

●銀山温泉の旅館建築

 旅館の外観の印象についてだが、例えば藤屋旅館において現在の建物の玄関脇に池が有るが、これは昔の藤屋旅館の建物と浴室のメタファーとし再構築した設計者(隈研吾氏)の意図が感じられるのだが、鑑みれば、銀山温泉の湯宿の共通の特徴は、川縁に面した一階に浴室が作られていたようだ。つまりそれは地形や源泉の温度や湯量などに起因し、川縁の斜面より湯が湧き出る場所に湯船作り、川側に窓を設け、快適な浴室の存在を主張するため浴室の外壁だけでも洋風の意匠を施したりと、それは湯宿の旦那達の意気込みの現れであったと思うのだが、今は亡き「かじか湯」大正~昭和初期?の写真を見ると「銀山温泉大湯」と書いてあるが、コンクリート造で四連アーチ窓のハイカラな共同浴場を作った事でも当時の意気込みが伝わって来るのだ。
しかし時は流れ、川縁に浴室を持つ宿は現代至っては少ないと思うが、幾つかの建物で浴室の気配が意匠として残っているし、気概の現れとしても、伊豆の伝説的左官職人「長八」の流れを汲む職人達の活躍した様子が各旅館建築に刻まれていて、例えば能登屋旅館の玄関周りに施された漆喰装飾や、街並みの共通点としての白い漆喰い壁や、戸袋に施された「鏝絵」漆喰会画、漆喰文字看板などがこの銀山温泉特有の雰囲気を作り出している。
この様に文化財級の建築物群が現在もこの場所に多く息づいていることは奇跡的なこであり、地元の人達が守り続けてくれたお陰であることは忘れてはならない。

しろがね橋から望む街並み 左岸のウドデッキに「和楽の足湯」がある
銀山川は緩やかに左にカーブし 次第に奥の街並が見えてくる
右岸の漆喰と縦格子の建物は「藤屋旅館」隈研吾の設計
藤屋旅館の玄関(昔浴室が有った場所に池を配し昔の面影を残す)
旅館永澤平八の右隣に「かじか湯」昔の大湯が有ったが2018年に撤去された

夜の銀山温泉